《Island Eye Island Ear (島の目、島の耳)》
1970年代半ばに発案された、孤島を丸ごと楽器化する、という未完のプロジェクト。
約50年間幻で留まっているプロジェクトの、今日的な実現可能性を数年かけて探るアート・プロジェクトが始まった。
公開実験:サウンド・ビームまでの日々
私はこの数ヶ月、《Island Eye Island Ear》の実験の日を楽しみにして過ごしてきた。しかし何をどう楽しみにしているのか、自分でも曖昧ではっきりしないままだった。
はっきりしない理由はおそらく《島の目、島の耳》と訳される不思議なタイトルと、さらにはそれが構想で留まり実現しなかったことで、実際はどんなものなのか良くわからない得体の知れなさ、この2つと思われた。
私は《Island Eye Island Ear》発案者であるデーヴィッド・チュードアの音楽にはそれなりに親しんできたつもりだった、しかしそんな幻のプロジェクトの存在などまるで知らなかった。
《Island Eye Island Ear》
というタイトルの「島」という規模が感覚をジャンプさせ、「島」の「目」「耳」と来る唐突感。
「島」と「鳥」は文字が似ているとひとたび思えば、
《鳥の目、鳥の耳》
と空中への読み間違いを誘い出す。
今回の実験会場はモエレ沼公園なので仮に
《Marsh Eye Marsh Ear、 沼の目、沼 の耳》
とするならば、わからなさは拡がっていく。
わかっているのは《IEIE》が未完の計画であり、その全体を体験している人がいないということだ。
具体的な構想はしっかりとあるが、実現はしていない、そのことを約50年抱えてきて、この度明らかになるものがある。おそらくその辺りに楽しみが詰まっていると感じたのだろう。
曖昧な楽しみをいくつか抱えている状態は、ハッピーのヴァリエーションと言って良いのではないか、何となく楽しみ、人生はそれで充分かも知れない。
そんな気持ちに私はなってきていた。
《IEIE》効果、というものがもしあるならば、これがそれだろう。
《IEIE》効果により、私は楽しみを感じて過ごしてきたが、同時に《IEIE》の発案者デーヴィッド・チュードアの得体の知れなさも色濃く浮かび上がってきた。
デーヴィッド・チュードアの音楽を、私は「時々」面白いと感じながら聴いて生活しているが、かといって「時々」以外は面白くないと感じているわけでもなく、どうやら面白い面白くないという判断が馴染まない領域に、チュードアの音楽、音、があるということに気づいてきた。
その音楽の多くは任意の箇所を「ハミング」することすら困難を極めるし、「ハミング」に何とか成功したとしても、今度は何故自分が「ハミング」をしているのか分からなくなってくる。そこに至って、これは「ハミング用」の音楽ではなく、ましてや「ハミング」だけが音楽ではない、という当たり前のことにも気づくのだった。
そういうどうでも良い発見のようなものを許容する膨大な余白のようなものが、チュードアの音楽には大量にある。
David Tudorは、チュードア、チューダー、テュードア、テューダー等が混在する名前の「表記揺れ」を持っており、その上「作曲」「作品」「演奏」「楽器」等の概念をあっさりと崩していくようなチュードアの軌跡と相まって、その人物、作品の印象は拡散していく。
チュードアってこうだよね、と全然言えない多面性、それもまた魅力だよね、としても何も言ったことにならない無 of 無の強烈なパワーを持った人物と音。と、ひとまず言えようか。
今回のイベントはそんなチュードアの未完の作品の
「公開実験:サウンド・ビーム」
であるという。
「よくわかりません」
と間髪入れず答える他は無いわからなさである。実験の醍醐味がここにあった。
《公開実験:サウンド・ビーム》
会場:モエレ沼公園
日時:2022年 8月21日 9:00~15:00
(動画レポートはこちら)
実験:Sound Throw
指向性スピーカーにより、ある地点の音を、距離を隔てた別の地点に届ける実験。
場所:モエレ沼公園 ガラスのピラミッド前
指向性スピーカーから実際に音が出されると、幅約2メートル、メジャーによる計測では長さ100メートル以上に達する、蝶道のような「音の帯」が形成された。
その帯状となった音を聴くべく、探りながら実験参加者30人あまりが歩き回る。
屋内外問わず、100メートル以上も歩き回りながら特定の音を意識的に聴く体験は始めてだった。
「音の帯」の界隈を、音の聴こえ方を探りながら動く、ということを30人あまりで繰り広げる様子は、ダンスの原型を見るようでもあり、演劇のようでもあった。
銭湯などで頭上から落ちてくる「打たせ湯」を丁度良い所に当てるように、音を当てるように聴く。からだを掠めるように音を当てても良いし、寝っ転がって音を当てても良いし、当てなくても良い。音との関係を自分が動くことで変えることができる。
見えない音の打たせ湯は、離れて見るとこんな具合だろう。
ある人がスピーカー付近から直線上に歩き出し、100メートルほど進んだところで引き返し出発点に戻ってくる。歩いた距離200メートル。
ある人がスピーカーから50メートル付近で、聴こえる幅を確かめるようにゆらゆら動き、その場に座る。ちょうど良い音の場所だったのかもしれないが、ただ疲れただけかもしれない。その日の最高気温は29度。
ある人がスピーカーから離れるように歩き出し、100メートルを超えても歩みを止めず、そのままどこかへ行ってしまう。これは休憩だろう。
上記の、ある人とは私本人のことだが、他の多くの人にも音の探索行動という副産物的なダンスが発生しているように見受けられた。
ある人としての私は、そのまま休憩しながら(その後の状況から軽い熱中症であったと思われる)観察というよりバテていたとも言える状況で、実験参加者以外の振る舞いをいくつか垣間見ることができた。
芝生に100メートルほど伸ばされた、距離計測用の白いメジャーの線と、見えざる音の帯の界隈を動く人々を見て
「あの白い線越えちゃ駄目なんじゃない」
そこは横切ってはならないエリアと判断して迂回する人。
「何かの撮影だね」
特殊なカメラのようにも見えるスピーカーと、何らかの秩序のようなものを感じさせて動く人々を見て、そう判断する人。
「これは何をしてるんですか」と男性
「音の実験ですよ」と私
「何も聴こえないねえ」と男性
この時スピーカーからは蝉の鳴き声が流れていた。そして近くで本物の蝉も鳴いていた。スピーカーの性能が高いため、事前の情報が無いと聴き分けは困難であった。
実験:Sound Reflection
指向性スピーカーを屋外で岩石やコンクリートといった障害物に向けた場合の反射による音響効果の聴感テスト。
場所:モエレ沼公園 サクラの森 遊具エリアB
この実験も興味深いことは色々とあったが、上げるのは実験と直接関係のない、副産物と影響を感じさせる印象深い出来事を1つだけ。
日傘を差した男性が歩いてくる。
サウンド・ビームの実験をしているエリアに入ると、ゆっくり日傘を閉じる。
そのまま歩きながらエリアから出ると、閉じていた日傘をゆっくり開く。
ここで何かをしているが、何をやっているのかはわからない。その場所に自分が何らかの影響を与えるのを避けたかったのではないか。
謎めいた優雅な動きだった。
今回の実験会場であるモエレ沼公園の完成するまでの紆余曲折は、《IEIE》の経緯と共鳴するところも感じられ、公園設計者のイサム・ノグチも今回の実験に参加していると捉えると、その繋がりから、チュードア、ノグチ、ケージ、サラバイ、とその見えざる参加者は増えていく。
そんな中でのサウンド・ビームの実験は、鳴っている音をどう捉えても構わないような開放感があった。
これはモエレ沼公園という会場の特性も大きかったのではないか。
建築家の藤森照信はここを訪れた際に、公園内の斜面が身体性を刺激する、斜面を本当に登りたくなる、と本に記しているが、五感六感を呼び覚ますモエレ沼公園の特性が、様々な共鳴を生み出していく《IEIE》の計画に響き合い、自分の感覚が枝分かれしていく開放感に繋がっているようだった。
音が鳴っていること、それを聴いていること、聴くって何、そんなごちゃごちゃしたやり取りを様々な感覚に繋ぐことができれば、捕まえがたい蠢きが生まれてくるだろう、その得体の知れない曖昧さを、面白いと感じるのも、恐怖と感じるのも、もうやめていただきたいと感じるのも、勝手にしてよろしい。
今回の実験を私はそのように体験した。
素材としての「音」の予測困難な振る舞いによって、体験する側の状況があぶり出される格好になったようだ。
《公開実験:サウンド・ビーム》の中心であった指向性スピーカーの性能は、スピーカーの音が聴こえている人の振る舞いによって、直接は聴こえていない人の振る舞いにも間接的に影響を与える。聴こえない音の伝播というネットワークも発生させるらしい。
《展示:IEIEクロニクル》
会場:SCARTSモールC
日時:8/28~9/13
満足しましたので、これで失礼します。
という心積もりでいたが、
「やや気になるお店が期間限定でオープンするらしいので一応行ってみるか」
《展示:IEIEクロニクル》を観に行った動機はこれに近い軽いものだった。
そして観に行った感想を短く言うとこうなる。
「これは一体何の話だ」
少し長く書くと以下のようになる。
展示空間へのファサードとなる辺りへ行くと、フィールドレコーディングめいた音が聴こえる。その音の出どころを探ると数十メートル先の対角線上に《公開実験:サウンド・ビーム》で使われたパラメトリック・スピーカーが見える。その音に引っ張られるようにして展示パネルの前へ進んだ。
《展示:IEIEクロニクル》は単なる情報の提示では無く 、《IEIE》にまつわる様々なあれこれが、星雲状になって渦巻いている異空間となっていた。
《Island Eye Island Ear》の緻密で具体的な情報が、ビームのように飛び交っている。
鋭い海溝のような情報が、何となく把握していた出来事に亀裂を生み出す。
実際の展示パネルでは、関連のある離れた項目がオレンジ色やピンク色の細いロープで繋がれ、星座を形成するようにビームが立体的に交錯する。
展示はパネルの裏側にもあり、ロープを頼りに繋がれた点と点の情報を読みながら、前後左右に行ったり来たりぐるぐる周って歩いていると、自分が惑星の周りを回る衛星になった気がしてきた。
所々に設置されたスピーカーからは様々な物音や話し声が流れている。衛星となった私はそれらを受信しながらこう思った。
「衛星ってこういう気持ちなのか」
そんなことより《IEIE》だ。
《IEIE》の候補となった島の3D模型も見る。
様々な濃度を持って溢れ出す情報そのものを、
《IEIE》参加者の中谷芙二子の題材「霧の彫刻」に見立ててみる。
パネルに貼り出された小咄の紙片と、それを繋げるロープ。
それをジャックリーヌ・マティス・モニエの題材、凧と凧上げの糸に、またはデーヴィッド・チュードア自作電子楽器と接続ケーブルの関係に置き換えて、ネットワーク回路に見立ててみる。
ネットワーク回路を手掛かりに、入力と出力を駆け巡るチュードアの音楽を思い浮かべてみる。
展示を観ることで把握し難いデーヴィッド・チュードアが、把握し難いまま存在感をいや増していく。
これまで抽象的で数少ないパズルピースで作られてきた
「ぼんやりしたデーヴィッド・チュードア像」が
《IEIE》の50年、というテーマを中心に集められた具体的で膨大なパズルピースにより弾け飛んでいく。
私は増え続けるパズルピースを持ち切れず、あちこちに落としながら改めて気づく。
「何も知らないな、チュードアのことを」
デーヴィッド・チュードア、1926年米国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。
かといってそこから始めなくてもよいだろう、謎めいた人物として長年通ってきたデーヴィッド・チュードアをあっさり通過して、Side Effectsにより生成され始めた具体的なパズルピースを元に、それぞれのデーヴィッド・チュードア像をここから好きに作っていくことが出来る。
そして私は落としたパズルピースを拾いながらこうも思う。
「拾い切れるパズルピースの量じゃないな」
パズルの楽しみはパズルピースの量だけで決まるわけではないだろう、しかしパズル好きであったというデーヴィッド・チュードア本人のパズルピースは今まであまりにも少なすぎた。
《展示:IEIEクロニクル》のパズルピースという情報の星々を衛星となって見た私は、これからの楽しみと期待を大量にまとわせてこう思う。
「これは一体何の話だ」
author:渡辺洋
photo:モンマユウスケ
【関連リンク】
【S.I.D.E. / Side Effects】IEIE, Reflected Phase 1 / 公開実験:サウンドビーム(モエレ沼公園, 2022年8月21日)