開拓使/かいたくし
調査員:長縄あゆみ
開拓使
開拓使色ということで当初開拓庁舎を調べていました。明治6年11月木造二階建てで本庁舎が建てられました。屋上に八角塔がついた洋風建築で「白亜の殿堂」と呼ばれ、北海道を代表する建物でした。しかし、明治12年1月に火災で全焼してしまいます。すべて灰になってしまった色を指して、開拓使色というのは悲しすぎると思い同じ時代に、札幌の開拓を見守り続けた地蔵に出会いました。
【開拓地蔵の誕生】
開拓使色ということで当初開拓庁舎を調べていました。明治6年11月木造二階建てで本庁舎が建てられました。屋上に八角塔がついた洋風建築で「白亜の殿堂」と呼ばれ、北海道を代表する建物でした。しかし、明治12年1月に火災で全焼してしまいます。すべて灰になってしまった色を指して、開拓使色というのは悲しすぎると思い同じ時代に、札幌の開拓を見守り続けた地蔵に出会いました。
【札幌の街の発展と怒涛の引っ越し】
明治28年(1895年)開拓が進むにつれ、家や道路が整備されたため南1条西12丁目あたりに地蔵が移されました。石山通として現在も交通量の多い主要道。当時から通行人が多く、赤い袈裟をかけて立っているお地蔵様の前には、お供物が絶えなかったそうです。
明治32年 街が発展してくるにつれて地蔵の場所が手狭になったため、南1条西15丁目あたりに移動されました。
【首なし事件発生】
明治35年頃、地蔵の首がなくなっていることに人々は気付きます。「首なし地蔵」と呼ばれるようになりました。
大正6年(1917年)南1条西18丁目へ移動。失われた首の代わりの石に頭巾をかぶせ、袈裟をつけた姿で立っていたといわれています。
【地蔵の危機と小川直良との出会い】
大正13年(1924年)住宅や商店が増えたため、大通西19丁目へ移動。「首のない地蔵は石ころ同然だ」と地蔵を廃棄する話が出た時、「札幌の開拓期からずっと見守り続けた地蔵を粗末にしてはいけない」という声で残ったのです。当時この町内に住み、篤志家として知られた小川直吉氏の呼びかけにより、小さなお堂を建て、お祀りすることになりました。このお堂はやがて「地蔵堂」と呼ばれるようになります。新川の大改修のときに、草むらから地蔵の首が見つかり無事に元の姿に戻りました。
昭和3年(1928年)7月小川直良氏が有志とともに寺院を新たに建立しました。それ以来、現在も毎年7月24日を例祭の日と定めて、お堂や祠を飾り付けて子供から大人まで楽しむ一日になっています。
※小川直吉氏:25歳で明治25年(1892年)に 新潟からやってきて今の長生園付近に住んでいました。 土木請負業を営みながら私財を投じ、 身寄りのない人や病人を自宅で手厚く手当てしていました。なお、小川氏の社会福祉事業の先覚者としての偉業をたたえて、中央区大通西19丁目の養護老人ホーム「札幌市長生園」の敷地内には、「小川直吉翁頌徳碑」が建てられています。今で言うボランティア精神を体現した人でした。
【札幌を見守って150年】
市街地がさらに発展し、建立地が札幌市有地であったことから、昭和31年と双子山へ移転。
現在も双子山地蔵寺に安置されており150年たった今でも札幌の街を見守り続けています。境内には一軒家を改装しカフェスペース「寺カフェ はなれ」があり、地域の皆様のコミュニケーションの場所として利用されています。開拓使の色は札幌の開拓を見守り続けた地蔵の色なのかもしれません。
【参考文献・資料】
札幌謎解き散歩 合田一道(著)
札幌文庫50 - 開拓使時代 札幌市
双子山地蔵寺
http://jizouji.jp/about/jizouson.html
寺カフェ
http://teracafe.jizouji.jp/
小川直吉
http://www.jusei.or.jp/tech/introduce/campus/campusNeighborhood/campusneighborhood.html
小川直吉翁物語 - 社会福祉事業先覚者 山崎嘉信(著)