サイド・プロジェクト・レポート(2022年2月) - 中井 悠

2022/06/04

郷に入らさると:「SIDE PROJECT:《Island Eye Island Ear》再考とその副作用」ログ(B)*1

ログ(名詞):航走中の船の速力を測るもっとも簡単な方法は、船首の斜め前方に丸太を投げ込み、船首から船尾まで通過する時間を計ることである。船の長さはわかっているので速力が求められる。この方法はダッチマンズ・ログ(Dutchman's log)といわれて古くから使われていたので、丸太を意味する英単語「ログ」がそのまま船の速力計測器の名称となった。またそのようなログが航海のデータを含むという意味から転じて航海日誌のことを「ログ・ブック」と呼ぶようになり、その略称として「ログ」は記録日誌を指す言葉としても流通している。【コトバンク、その他】

出発前の週末、札幌で大雪が降ったというニュースが流れた。不安に思って状況を聞くと、「昨日、別件で稚内からドローンの撮影チームが通常5時間のところを10時間かけて札幌まで来ました」という安心すべきかどうかわからない情報とともに、そうしたおぼつかない心の準備をうながす言葉が送られてきた:「自然現象なので、半ば諦めるほかないというところは道内では共有されていますので、あまりナーバスにならずその空気を楽しんでいただけたらと思います」。その言葉に押されて航空券を購入した。すると出発日に今度は東京が大雪になるというニュースが流れ、フライトが欠航になった。なぜか欠航を(数便だけは)思いとどまったJALのチケットを当日の朝、急いでとりなおし、雪遊びを心待ちにしている11歳の息子のエイヴィが興奮を抑え切れなくなっているかたわらで、すでにチラつきはじめた雪のせいで羽田空港に辿り着けないかもしれないことを案じながら家を出た。もちろんJALの判断は正しく、東京の雪はほとんど積もることなく、ぼくの心配は杞憂で、エイヴィの期待は無惨に崩れ去った。札幌に到着すると、「飛行機のドアが凍って開けられないので、外から温める間お待ちください」という機内放送があった。外に出て、あたり一面に高く積もった雪の写真をエイヴィに送ったら、「次は絶対一緒に行く」という固い決意のメールが返ってきた。

一日目:2月10日(木)

札幌駅まで迎えにきてくれた芸術祭事務局の小澤さんが生まれも育ちも札幌だと聞いて、北海道の方言について尋ねたところ、「〜さる」という動詞の活用形を教えてもらった。意図せずにうっかりしてしまった動作を指す言い回しらしい。自分が行なったことですら、あたかも大雪のような自然現象と同じく、不可抗力として半ば諦めるほかないという感覚が根づいているのだろうか。

その夜のSIAFラボメンバーとの話し合いのなかで、最近交流をはじめたインドのアーメダバードという街でも《Island Eye Island Ear》をやりたいという声が上がっていることを伝えた。その流れで、1940年代半ばにインド音楽に対する西洋音楽の影響を憂いたギータ・サラバイというアーメダバードの若い音楽家が、まずは西洋音楽のなんたるかを勉強しようと赴いたニューヨークで、ひょんなことからジョン・ケージと出会ってしまったこと、そしてケージから西洋音楽を学ぶ代わりにケージにインド音楽を教える約束を交わしたこと、その遠い帰結として1960年代の終わりにデーヴィッド・チュードアがギータの生まれ故郷にインド初の電子音楽スタジオをつくり、さらにはまわりまわって自分自身がチュードアを研究するきっかけにもなったことを話した。*2 固い決意を持って渡米したギータの行動は、西洋音楽の影響から自国の音楽を守るどころか、アーメダバードをインドにおけるケージやチュードアなどアメリカの実験音楽の牙城に仕立て上げてしまった。目的の副産物が目的をくつがえしていく流れのどこかで、彼女は半ば諦めるほかないという感情を抱いたのだろうか。それとも、当初の目的をいつの間にか諦めさったのだろうか。

ホテルへの帰り道、雪に足を取られないようずっと地面に向けていた視線をふと空にあげさるとその雪を降らせた雲の異様さに目を奪われた。北国ゆえか広大な大地の空の広さゆえか、東京やニューヨークでは見たことのない複雑な空模様が、絶えず移ろいながら、とんでもないスケールで繰り広げられていた。数年前アラスカに一ヶ月ほど滞在したときも、ずっと飽くことなく雲を見ていたことを思い出した。そのとき読んでいた《雲の理論》という本のなかで、フランスの哲学者ユベール・ダミッシュが記した、決して固定した像に止まらず、地上の光景を統御する遠近法にも収まらない雲という対象にヨーロッパの画家たちがどのように取り組んだかについての話が脳裏にぼんやりと浮かび上がってきた。でもそのようなことより、目の前のあたり一面に鮮明に広がり、交通機関をはじめとする都市のインフラを狂わせる雪自体のインフラが、足下ではなく頭上に存在することの妙にとらわれた。今回のプロジェクトで雲を使う手はないかと思わず口走ると、中谷芙二子さんが霧の彫刻を手がける前に雲の絵画を制作していたことを明貫さんが思い出させてくれた。そして、コロナ禍で中止になった2020年の札幌国際芸術祭のテーマが《Of Roots and Clouds》だったことを知った。

二日目:2月11日(金)

翌朝、CoSTEP(北海道大学科学技術コミュニケーション教育研究部門)の奥本さんと朴さんの案内で、北海道大学のさまざまな研究を展示する総合博物館を巡った。はじめに、長年この大学で雪の研究を行ない、低温研究所を設立した中谷宇吉郎さん(芙二子さんの父親)の研究室を見学した。一般向けの展示スペースとは離れた裏手に現在は移し置かれているその小さな部屋には、宇吉郎ゆかりの品々が、なかば当時の研究室を再現するため、なかば展示資料として所狭しと並べられていた。入ってすぐ左手の窓際に置かれた重厚な研究机には、これが宇吉郎博士の使っていた机を模して門下の研究者が1955年に作らせたものだという説明とともに、この実物大の模型のとくに注目すべき細部が記されていた:「真中の引出の表面の波状模様は、失われた宇吉郎の教授机とそっくりである。当時の雰囲気をこのコーナーに再現するため、特にこの机の提供を受けた」。

午後に訪れたモエレ沼公園では、キュレーターの宮井さんの案内で、ガラスのピラミッド内にある公園の設計に関する展示を見た。構想とデザインを担当した晩年のイサム・ノグチは、死ぬ一ヶ月前に全体プランを披露し、あとは残されたものたちに実現を託すと言って亡くなった。プランからはわからない多くの細部は、イサム・ノグチの他の作品の調査を通じて本人が構想したであろうかたちを突き止め、パズルを解くように穴を埋めていったという。残された模型を見ているうちにふとあることに気づいた。すこし離れたところにある駐車場から公園に向けて歩いたときに橋を渡ったが、その下にあるモエレ沼は一面が雪に覆われていたためまったく見えなかった。でも模型の沼はちょうど三日月状に公園を囲んでいる。だから宮井さんに、モエレ沼公園は島なのかと聞いてみた。そうとも言えるかもしれないという答えに続いて、ここが島なら《IEIE》の候補地になるのではという議論が起こった。少なくともサイズとしては申し分ないことは判明した。ふとニューヨークに住んでいたころ、イサム・ノグチ・ミュージアムが、片親が日本人である子ども限定のアート・スクールをやっていて、時々そこにエイヴィを連れていったことを思い出した。

その夜、ベルリンとニューヨークをzoomでつなぎ、今年の夏にベルリンで予定されているデーヴィッド・チュードア・フェスティヴァルの最終調整を行なった。7月1日から10日にかけての開催、そして自分が担当するイベントとして、《IEIE》に関する四時間のシンポジウムと、1969年のインド滞在時にチュードアがモーグ・シンセサイザーで作った《Monobird》という音楽の再演コンサートをやることが決まった。

三日目:2月12日(土)

ほとんど徹夜明けのまま、札幌から車で一時間ほどかかる白老のウポポイ民族共生象徴空間とその敷地内にある国立アイヌ民族博物館を訪れた。一昨年の夏にオープンしたばかりの大きな箱型の建物内の展示では、アイヌの文化に関する多くの資料が仕切りのない巨大な空間のあちこちに置かれていたが、とりわけ誰が誰に対して見せているものであるのかに注意が払われていた。解説で使われる「私たち」とはアイヌの人々であり、彼らの土地を奪った開拓者側では決してなく、その語りの立場をより明確にするためにもアイヌ語の説明がかならず付されていた。それと同時に、「アイヌ」と呼ばれる人々が一枚岩ではなく、その総称を安易に実体化すること自体に含まれる差別の構造についても触れられていた。開拓史の流れを辿る展示を見ながら、アメリカをあちこち旅したときに出会ったアメリカン・インディアンの人々や、訪れた彼らの住む保留地のことを思い浮かべた。そして、北海道の地図を眺めながら、自分があとにしてきた旧世界の街の名を、新しい土地につくった居住地につける開拓者たちの風習が北海道でも見られることに気づいた。広島の出身者が入植した「北広島」のように。ヴィム・ヴェンダーズが監督した《パリ、テキサス》というロードムーヴィーがあるが、じっさいテキサスにはパリ以外に、ロンドンもベルリンもモスクワもあることを十年ほど前に旅行した際に知った。ヨーロッパの主要都市を駆け足でめぐるパッケージ・ツアーを日本の旅行会社がよく組んでいるが、それを真似た旅行プランを金持ちの旅行者向けに売りつけて、全員テキサスに連れてくるというアイデアがそのとき浮かんだことを思い出した。

博物館の隣にあるホールで、アイヌの踊りと歌のショーを見たあと、前の館長だった野本さんと話す機会があった。博物館がリニューアルし、国立化される過程であがったさまざまな問題や反対の声を集約するように、新しい建物のデザインがなんの意味も持っていないことを彼は厳しく批判した。また東京から来たことを話すと、北海道にもう南からの風はいらない、北からの風が必要だと清々しく返された。不可抗力として半ば諦めるなどもってのほかと言わんばかりに、饒舌に語る野本さんの話を聞きながら、展示形式におけるアイヌの主体性の上演の背後に、いまなお排除の構造が横たわっていることに気づかされた。東京どころかニューヨークの音楽家が夢想した、自然とテクノロジーの区分を問い直す実験的な芸術プロジェクトについてどう思うだろうか。どこかギータ・サラバイの話と遠く響き合うところがあるだろうか。インドから吹くのは南の風だろうか。新しい博物館の設立に際して館長職を退いたあと、野本さんは博物館以外の施設の担当になったとのことだった。そこに行ってみると、アイヌの村の実物大の模型が点在していた。

四日目:2月13日(日)

明くる日、SCARTSでSIAFラボの展示を見た。そのあとのシンポジウムで話したことだが、とりわけ面白かったのは、さまざまなデータをいったんモデル化したうえで、展示において上演する際に、「絵画」、「書籍」、「(写真の)コンタクト・シート」や「彫刻」と言ったさまざまなメディア形式が意識的に使われていることだった。その個別の形式との接合と軋轢において、元のデータやモデルには還元できない情報がある種の副産物として生み出されているように思われた。それが「作品」かどうかという議論があったが、そもそもメディア・アートとは、ただ新しいメディアを使った(定義上、すぐに古びてしまう)「作品」を生み出すアートというより、自然化されがちなメディアを対象化することで問いに付す営みだろう。*3 だからデータがさまざまな形で上演されているだけではなく、SCARTSのギャラリーという特定の文脈で公開するために要請される「作品化」の過程において選択される個別の形式が、データとの関係によってモデルとして対象化されていると見ることもできる。あるメディアを批判し、相対化するのはつねに別のメディアだが、その実践の土台となるのは、「作品」という漠然とした概念よりも、比較的強い具体性をもつ既存メディアの形式である——丸太がログとして生き残るように。そして「アイヌ」という名称のように、メディアとは無数の差異を束ね、交換可能にする暴力の機構でもある。その意味で芸術におけるメディア、あるいは「芸術」というメディア自体の枠組みを問いに付す「メディア・アート」という形式を通して、今回の旅で浮かんできたさまざまな問題を整理することができるだろう。

もしメディアが、いまここにない何かを、いまここに実質的(ヴァーチャル)にあらしめる仕掛けだとすれば、それはいつでもある種の模型性を帯びている。たとえば地図とは所定の空間を眼差しによって探求可能にする模型であり、ログとは所定の時間を記憶において再生可能にする模型である。そして《IEIE》における「楽器」としての孤島も、そのような模型(モデル)のひとつに数えられるかもしれない。

最後の夜、ふと気になってイサム・ノグチとチュードアの間になにか接点がないか調べてみた。そうしたら、1948年にニューヨークにやってきたギータ・サラバイをジョン・ケージに紹介したのはイサム・ノグチだったことがわかった。さらに調べていくうちに、そもそもギータがインド音楽に対する西洋音楽の影響を憂いて渡米したという話自体が、ケージの語りでしか残されておらず、しかもそこでギータから学んだインド音楽の極意としてくりかえし述べられる「音楽の目的は心を静めて穏やかにさせ、神の影響に感応しやすくさせること」という教えが、じつはインドではなく、十七世紀のイギリスのトマス・メイスという作曲家の言葉であったことが判明した。ギータが半ば諦めるほかないという感情を抱いたかどうかという問いにしても、一方的な語りを疑いなく受け入れることの副産物として成り立っていたわけである。これがケージが1940年代にでっち上げたオリエンタリズム丸出しの神話なのか、それとも十七世紀イギリスの音楽思想が植民地インドに流れ込んで、すっかりその郷の伝統として自然化したあとに、それを自分の文化として学んだギータによってふたたび西洋に意図せずにうっかり逆輸入されたのか、依然としてはっきりしない。いずれにせよ、問題は語りの立場と他者の存在の受け入れをめぐる政治である。そしてそこでは、自然現象なので半ば諦めるほかないという感情と、「自然」というもっとも自然化されがちな広義のメディアを計測し、模型化することで演奏(パフォーム)可能にする営みが絶えずせめぎあっているのだ。


*1. このレポートは2022年2月に行なわれた「サイド・プロジェクト」のための北海道滞在と立ち上げシンポジウムの記録として書かれている。類似のレポートを表象文化論学会からも同時に頼まれたため、二通りに経緯を記録することにした。それぞれ独立した読み物となるように心がけたが、通して読んでもらっても良いし、ところどころに互いへの言及もある。表象文化論学会(REPRE45)側の「島の耳目をそばだてる:「SIDE PROJECT:《Island Eye Island Ear》再考とその副作用」ログ(A)」も参照されたい:https://www.repre.org/repre/vol45/topics/nakai/
*2. この経緯については、Repre44に書いた「アーカイブのゆとり」を参照されたい:https://www.repre.org/repre/vol44/topics/nakai/
*3. メディア・アートに対するこのような考え方については、アメリカ文化事典の「メディア・アート」という項にまとめたことがある:中井悠「メディア・アート」、『アメリカ文化事典』、丸善出版、2018年。以下のサイトで閲覧可能:https://www.academia.edu/44743130/_MEDIA_ART_

 

author: 中井 悠

[関連リンク]
サイド・プロジェクト・レポート(2022年2月) - 明貫 紘子
サイド・プロジェクト・ドキュメント動画(2022年2月)
Side Effects 2022 - 2024

 

2022/06/04